3.11 東日本大震災【当時を振り返る。】
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大震災が起きてからもう5年の月日が流れました。仕事をしてるとなおさら思いますが、あっという間に月日が過ぎていった気がします。
【2011年3月11日14時46分】
※南相馬市津波被害写真
当時僕は23歳。
地元の福島県南相馬市を離れ横浜の大学を卒業後、インテリア業界の営業職として社会人1年目。仕事を覚えるのに必死で心の余裕ががなかった時の出来事です。
ようやく先輩同行が終わり、独り立ちして神奈川県の寒川町にあるお客様宅で打ち合わせをしていました。
突然「ゴゴゴ」と地鳴りが起きその後大きな揺れがありました。
お客様と一緒に慌てて外に出ました。
外を見回すと電柱と電線が大きく揺れており地震が終わるまで、ただただ呆然と立ち尽くしていることしかできませんでした。
確か2、3分は揺れが続いており、こんな長い地震は生まれて初めての感覚でした。
ようやく地震がおさまり、世間話のように
「この辺りの震源ですかね〜?」
本当に他人事だと思っていました。
でもその『勘』は大外れだったのです。。。
国内最大規模の大地震
※写真は南相馬市鹿島区沿岸部の朝焼け
その後打ち合わせを終わらせ車に戻りラジオをつけて地震のニュースに耳を傾けてみると、
- 震源は東北地方の宮城県牡鹿半島三陸沖。
- マグニチュード(M)は9.0。
- 日本国内観測史上大規模の大地震。
- 震度7 宮城県栗原市
- 震度6弱 福島県南相馬市(地元)
- 南相馬市の老人介護施設にて36人が死亡。1人が行方不明。
※その他震度情報は今回は省略させていただきます。
この情報を耳にした時、頭の中が『真っ白』になりしました。
家族に電話しても全く繋がらないし、ラジオでしか情報を知ることしかできない。
僕はSoftBankユーザー。当時はSoftBankは一番回線が悪かったのです。
「南相馬市でこんなに死者がでてるのなら、自分の家も崩壊し家族にも何かあったに違いない。」
そう思い、『絶望的』になったのです。
会社に戻ると先輩がdocomoの携帯を貸してくれたので電話してみると、ようやく父の電話に繋がり安否を確認できました。
「みんな無事で家も大丈夫だ。でも沿岸部は凄い事になってると思うし行方不明者がたくさん出たと聞いたな。」
この言葉を聞いて少しほっとしました。
でも僕の生まれ育った南相馬市が。
夏には友達とよく海へ行き遊んでいた青春時代の光景が。
津波は思い出の場所さえ消してしまいました。
※南相馬市沿岸部 北泉の津波被害
まさかそんなことになると思ってなかったので、ショックを隠せませんでした。
更にその後、福島第一原子力発電所が爆破して放射能が拡散したのです。
この影響で南相馬市は目に見えない恐怖に襲われました。
「これからどうしよう。」
自問自答しましたが答えが見つかりませんでした。
その後、一年経過する間に家族の不幸が度重なり、実家に帰ることを決意し地元南相馬市での新たなスタートを始めることにしました。
震災がきっかけとなり僕の環境は変化し、行動的に活動し始めるようになりました。